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「日本のラグジュアリー」

日本のラグジュアリーとは何か。近年、海外に向けて日本の魅力を発信する中で、しばしば問われるようになってきたテーマである。現代では、豊かさというものが、「物の所有」だけではなく、「旅や体験」にも広がる中で、複雑な地形が生み出す豊かな自然や、長い歴史に根ざした伝統文化こそが、日本のラグジュアリーなのではないかと考える人が少しずつ増えている。

ラグジュアリーの語源は諸説あるものの、主にはラテン語の「luxus」または「luxuria」であると言われている。これらの言葉は「過剰」や「豊富」を意味し、そこから「贅沢」という印象を持つようにもなった。現代では、ラグジュアリーブランドといえば、ルイ・ヴィトンやグッチなどのハイブランドを連想し、ラグジュアリーホテルであれば、国際的な五つ星ホテルが思い浮かぶだろう。そのほかにも、高級車や宝飾品、美術品などもラグジュアリーなものとされる。

ラグジュアリーの歴史

ラグジュアリーについて、歴史的な観点から考えてみると、西洋の貴族文化の存在は避けて通ることはできない。中でも、中世ヨーロッパにおける貴族たちは、封建制度のもと大きな権力を持ち、必要最低限以上の高価なものを購入し、優雅な暮らしをしていた。絵画などでも知ることのできるこの華やかな暮らしぶりは、今でもラグジュアリーという言葉の基礎的な印象となっている。

日本でも平安時代に貴族文化が大きく花を咲かせたが、西洋のように長く続いたわけではない。いつの時代にも、富を持ち、華やかな暮らしをしていた人はいたであろうが、個よりも集団を尊重し、質素倹約な暮らしにも意義を見出そうとする日本の暮らしの中では、たとえ豪華な生活をしていたとしても、どこか控えめな姿勢を持つことを求められるものだ。ここに、日本におけるラグジュアリーというものの解釈の難しさがある。

また、ラグジュアリーなものというのは、時代によって解釈が異なる。その点では、美しさというものともよく似ている。美とは、時代や文化によって捉え方が変化するものである。絵画であれば、印象派が人気の時代もあれば、写実派が栄えた時期もある。ファッションも、時代や文化ごとにそれぞれの特徴がある。ラグジュアリーについても、金や宝石のように、長い間、高価なものとされてきたものはあれど、家電の三種の神器のように、今では多くの家庭に普及し、決してラグジュアリーな存在とは言えないものもある。茶の世界であれば、雑器を茶道具として用いることで、新たな風情を生み出すこともある。今後シェアリングエコノミーが広まり、所有する価値そのものが変化すれば、高価なものを購入することすらもラグジュアリーとは言わなくなる時代が訪れるのかもしれない。

現代のラグジュアリーとは何か

物質的には豊かになっている現代社会では、ラグジュアリーとは、物ではなく、コトや体験を意味することも多くなってきている。体験には旅も含まれ、旅は現代においても一つの贅沢とされるが、それは今でも自らで遠くへと移動するということが難しいからであろう。良い旅をするには、時間かお金、あるいはその両方が必要になる。旅がラグジュアリーであるのは、ただ遠くへと行くからなのではなく、こうして時間やお金をかけた旅から得るものは、人生の宝だと感じる人が多いからであろう。

こうして考えると、現代のラグジュアリーというものは「生きがい」と通ずるところがあるように思う。生きがいは、趣味とは異なり、他者との関係の中で時間をかけながら何らかの価値を生み出すことで感じられるものであり、短期的に得られるものではない。ラグジュアリーというものも、深く掘り下げていけば、時間をかけて豊かになることを意味するのではないだろうか。

人から生まれたラグジュアリー

少し否定的な見方をするとすれば、ラグジュアリーとは、常に人と比べる相対的なものであるという点がある。贅沢というのは、一つの基準があり、それを超えるからこそ贅沢なのである。みなと同じものを食べ、同じ服を着て、同じ仕事をしている集団生活の中では、ラグジュアリーという感覚は生まれにくいはずだ。ラグジュアリーとは、人による階級社会から生まれた感覚であり、人の欲求と切り離すことのできないものであることは、注意して認識しておきたい。

では、欲を捨て、無駄のない質素な生活をすれば良いのかというと、そうではないだろう。人は、欲があるからこそ、常に未来を見据え、自らで進化を続けてきた。欲を持ちながらも、理性があるという点に人間らしさがあり、みなが無欲なままにただ質素に生きるというのでは、未来に希望が見えなくなってしまう。これからの時代に、真のラグジュアリーについて考え、追い求める姿勢は、決して強欲なことではなく、その渇望が生きる力となっていくべき点が重要なのだ。

日本のラグジュアリー

豊かさとは、多くの富を所有することではなく、少ない欲求を持つことにある。

これは、古代ギリシャの哲学者エピクテトスの言葉である。これまでのラグジュアリーの意味が、他者との比較による「豊富さ」であったことは否めない。だからこそ、その豊かさの本質を問い続けることが重要である。そこでは、「余白」というものに意味をもたらすことのできる日本文化は、これからのラグジュアリーに光をもたらすかもしれない。

「長寿の秘訣は腹八分」という言葉があるが、逆説的に「腹八分の贅沢さ」があるとすれば、それはきわめて日本的な考え方といえるだろう。近年国際的に使われることになった「クワイエットラグジュアリー(Quiet Luxury)」という言葉も、これに近いものがある。豊富さは、「結果」ではなく、「プロセス」にこそ価値がある。時間や空間にも豊富さはあり、もちろん、人の心の中にも豊富さはある。欠けていても、豊かなものとは何だろうか。欠けているからこそ、美しく尊いと思えるものは何だろうか。日本文化や手仕事による工芸品に国際的な役割があるとすれば、そんな問いの中にあるのかもしれない。

贅を尽くした、その先にあるもの

ラグジュアリーの終着点が、「贅を尽くす」ということであれば、その先にあるものは何であろうか。想像してみてほしい。仕事で成功し、豪邸を購入。高価な物を身につけ、休暇には家族でプライベートジェットで旅をする。しかし、そんな贅沢な暮らしでも、同じような生活を長く続けていると、どこか虚しさが残る。そんな虚しさを抱き始めたころ、愛犬と近所を散歩しているときに、ふと立ち寄ったカフェで注文した焼きたてのパンと淹れたてのコーヒーをいただき、人生の豊かさとは何かを思い直すこととなった。そんなストーリーは想像できないだろうか。

海外で注目されている「侘び寂び」も、豪華絢爛な世界がすぐそばにあったからこそ生まれた美意識であり、思想であった。現代人の多くは、スマートフォンを一人一台持ち、冷暖房の効いた家に住み、豊富な移動手段を使っては、さまざまな場所に旅をすることができる。それは、昔の貴族のような生活ではないかもしれないが、昔の庶民と比べれば、十分に華やかで優雅な暮らしをしているのだ。贅を尽くしたその先に、何があるのか。私たち現代人が追い求めるべきは、そんな新たなラグジュアリーの在り方であり、そこにこそ、人生における真の豊かさが隠されているのだろう。

参考:
安西洋之・中野香織『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』(クロスメディア・パブリッシング)
ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』(東洋経済新報社)

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柴田 裕介

編集長

(株)HULSの代表兼工芸メディア「KOGEI STANDARD」の編集長、コラムニスト。東京とシンガポールを拠点に活動を行う。日本工芸の国際展開を専門とし、クリエイティブ・ビジネス面の双方における企画・プロデュースを行っている。