「クラフトマンシップ」
連載コラム『日本工芸の歩む道』後編「現代社会と工芸」 VOL.2
展覧会情報やインタビューなど、工芸に関するさまざま情報を発信しています。
深川三ノ瀬を訪れると、不思議と心が凪ぐ。ここ深川萩の産地で生まれ育ち、歴史ある窯元を受け継ぐ陶芸家・田原崇雄は、「萩焼」というものをどう受け止め、歩んでいこうとしているのだろうか。作品ににじむその人柄と作陶への思いを掘り下げる。
インタビュアー / 堤 杏子
山口県長門市在住の陶芸家。歴史ある萩焼深川窯の一つ、田原陶兵衛工房に生まれ育つ。大道土を使用した伝統的な質感を基調としつつ、自身の新たな釉薬表現を追求し、作陶に励んでいる。
詳細プロフィールへ江戸時代の始まりとほぼ同じ時期に、当時の萩藩主が朝鮮の陶工であった李勺光と李敬の兄弟を招いて城下でやきものを作らせました。これが萩焼の始まりです。それから50年ほど後に、職人が大勢三ノ瀬に移住し、最終的に李勺光の孫が三ノ瀬に移ってきたことで完全に分窯となり、1657年に「三ノ瀬焼物所」ができました。そこから萩焼深川窯が始まったと言われています。
田原陶兵衛工房は李勺光の弟子の家系で、三ノ瀬に移ってきた赤川助左衛門を初代としています。江戸時代末期に武家だった田原家の名跡を継いで田原姓を名乗り、明治の時代になると名を陶兵衛と称し、作家として活動を始めました。この地区はみんなそうで、江戸期はずっと職人としてやきものを作り藩に納めていましたが、明治以降に藩の庇護がなくなったことでそれぞれが個人作家として活動するようになりました。
一般的な萩焼のイメージというものがあると思うんですけど、意外に萩焼って、決まっているようで決まっていない。今いろいろな新しい萩焼が作られていますが、それが全て受け入れられているんですよね。そういう土壌があるのかなと思うんです。萩焼を作る人も、使う人も、みんな優しいなと思っています。新しいものを受け入れてくれる土壌があるというのはすごく良いことだと思います。
これは良い面も悪い面もあるんですけど、今、新しく外からやってきて萩焼を始める若手作家がいないんです。僕らはもともと家業で陶芸をやっていますが、そういう人しか作り手がいない。外から萩焼に魅力を感じて来てくれる人が作る萩焼は、やっぱり萩焼らしい作品になると思うんですよ。でも今の萩焼のイメージって、親世代がしっかりと作ってきているので、自分たちはそこからどう新しいものを作っていくかを考えるんですよね。だから若い世代が作るものは、萩焼ではあるけど萩焼らしくない。でもそれがまた、萩焼の新しい魅力になっていくといいなと思っています。