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「現代のリトリート」

現代社会では、リトリートを望む人々が増えている。リトリートをコンセプトとした宿や施設が次々と開業し、オーストラリアのスタートアップであるUnyoked(アンヨークド)は、シドニーやロンドンの郊外にキャビンを設置し、都市からのリトリートを提案することで人気を集めている。日常から抜け出すことが必要な社会は、決して健全とは言えないが、それでもリトリートというものの流行は、何か歪んだものを整えたいと願う社会全体のサインのようにも見える。

まず前提として言えるのは、リトリートは、一般的な旅の休息とは異なるということだ。そもそも「リトリート」という言葉には、「癒し」という意味は直接的には備わっていない。リトリートの結果として心身が整うことはあっても、家族や友人と自然豊かな場所に行き、美味しい食事や娯楽を堪能する旅を、単純にリトリートと呼ぶわけではないことに注意したい。

また、リトリートは都市生活者のためだけにあるものでもない。たとえば、田舎の濃密な人間関係に疲れ果てた人が、人々が深く関わり合うことのない都会の風を浴びにいくのも、一種のリトリートであると言える。そのような前提を踏まえつつ、現代人にとって必要なリトリートとは何かを考えてみたい。

リトリートとは何か

リトリートの語源は、ラテン語の「retrahere」であるとされ、「撤退」や「退却」を意味する。リトリートという言葉自体も、かつては軍事用語として用いられてきた歴史がある。戦時には、前線の軍を置き去りにしてでも、退却しなければならないときがある。そうした緊迫した状況を想像すれば、リトリートとは、日々奮闘している「現場」から抜け出すという意味で使われるべき言葉であることがよく理解できる。

こうしたリトリートは、さまざまな宗教においても独自に行なわれてきた。たとえばキリスト教では、日常から離れ、瞑想を通して自分自身を内省する時間を持つ集まりを「修養会」と呼び、英語ではそのまま「retreat」と表現される。

近年では、デジタルデバイスやSNSによる心身の不調を整えたいと考え、一時的にそれらから距離を置き、瞑想やマインドフルネスを行なうことが人気となっている。その流れの中で、リトリートというものも、情報に溢れた都市生活者を中心に注目されるようになってきたのである。

リトリートとリトリートメント

リトリートは、「リトリートメント」という言葉と混同されがちだが、その語源は異なる。トリートメントの語源は、フランス語の「traiter」であり、「治療」を意味する。そのため、リトリートメントは「再治療」という意味になる。しかし、リトリートを求める者が、必ずしも心身を病んでいるわけではないだろう。もし、さまざまな宗教におけるリトリートまでもが「治療」という意味で捉えられるのであれば、それは少々過剰な行為にも見えてしまう。日常から離れ、自分自身を内省する時間を持つことは、治療というよりも、むしろ予防に近い。定期的にリトリートを行なうことで、複雑化する社会との向き合い方を微調整できるようになるのではないだろうか。

静寂を求めて

現代の都市での暮らしには、一切の隙間がない。隙間はスマートフォンがすぐに埋めてくれ、待ち時間にはスマートフォンを眺めることが、多くの人の習慣になっている。都会では、駅や公園のベンチに座って何もしていない人がいれば、不審者だと誤解すらされかねない。そんな時代になった。

私たちは常にインターネットにつながり、眠りについた後ですら、どこかで誰かとつながっている状態にある。脳がそれを処理しようとしまいと、常に何かと接続されている。そう考えると、今の時代に「静寂」を手に入れることは容易ではない。静寂とは、ただ無音の状態を指すのではない。空間そのものと、そこにいる人々の気持ちまでが静まっている状態を指す。現代におけるリトリートは、忙しない日常から離れ、そのような静寂のある場所へと身を移すことでもある。その静寂を手に入れることこそが、現代社会においてリトリートが求められる理由の一つなのだろう。

引いて、全体を眺めること

日常の暮らしがうまくいかないと感じている人は、目の前の個別の事象に執着しすぎていることがある。日々のひとときの休息が、一歩や二歩引くことだとすれば、リトリートは、そこからさらに後ろへと下がり、全体を眺めることを意味する。すると、一つ一つの出来事は、とても小さなものに感じられるはずだ。たとえば、高層階から地上を眺めると、車や人の動きは驚くほどゆるやかに見える。高速で走る列車ですら、空から見れば一本の線のように映る。日常でもさまざまなことに対処ができ、落ち着きのある人というのは、そのような視点を常に持っており、リトリートすべきタイミングですら、俯瞰しながら判断することができる。引くということは、視点を変えることでもある。リトリートにおいては、その視点の変化にこそ大きな価値があるのだ。

だからこそ、もしあなた自身が日常から脱却したいと願うのであれば、ただ静かな場所を求めるだけではなく、できるだけ具体的な物事から距離を置く状態を探るべきだ。瞬時に大量の情報を受け取ってしまうデジタルデバイスの電源を切り、視界の近くにあるものから離れ、まずは遠くを眺めてみる。その意味では、やはり自然の中に身を置くことは、最良のリトリートの一つであると言えるだろう。自然の中で、現代のデジタル社会からの刺激を最小限にすることで、自分自身の今の日常を遠くから眺められるようになるはずだ。

日本のリトリート

現代のリトリートにおいて、日本の役割とは何だろうか。日本の豊かな自然と四季の移ろいは、それだけでも世界の人々にとって、十分にリトリートに値するものだ。また、八百万の神という思想を背景に持つ日本の自然観には、自然そのものに神秘的で不可思議な力を見出す独自の感性がある。海外の人々にとっては、そうした視点に触れること自体が、リトリートの目的となりうるだろう。

一方で、リトリートの方法は、人によって大きく異なる。冒頭で述べたように、田舎暮らしの人が都会へ抜け出すのも一種のリトリートであり、現実社会から離れ、仮想空間に没入することも、ある意味では現代的なリトリートと言える。リトリートを、「今いる場所から大きく距離を取り、視点を変えること」と定義するのであれば、それらもまたリトリートの一形態なのだろう。しかし現代社会において、多くの人々はデジタルデバイスに苛まれ、そこから離れることをリトリートと呼ぶようになってきている。そうした時代において、自然から新たな視点を得ることは重要である。その場所として、国土の67パーセントが森林である日本は、大きな可能性を秘めていると言ってよい。

最適な隠れ家を見つけること

私は、現代社会で流行するリトリートの行き着く先は、一人ひとりにとって最適な「隠れ家」を見つけることなのではないかと考えている。一昔前であれば、都会に暮らす多くの人々には、自らの故郷というものがあった。帰省すること自体が、大切なリトリートになっていたはずである。田舎から都会へ出てきた若者たちは、「辛くなったらいつでも帰ってくればいい」という親や親戚の言葉に支えられながら、都会で懸命に生きていた。そして、都会での暮らしに疲れ果てたときには、故郷へとリトリートしていたのだ。その姿は、戦場から退却する兵士とどこか重なる。別の見方をすれば、現代では「故郷」という存在が失われつつあるからこそ、リトリートに注目が集まっているとも言えるのではないだろうか。

リトリートとは、ただ静かな場所で心を落ち着かせるためのものではない。複雑化する社会に立ち向かうための、進化の過程なのかもしれない。今いる場所から離れ、新たな視点を獲得すること。その姿は、逃げ惑う兵士ではなく、未来への希望を抱いた勇敢な旅人のようにも思える。私たちは、どれほど困難な時代であっても、懸命に生き抜いていかなければならない。そして、明るい未来は、自らの手でつくっていくしかない。そのためのリトリートであるならば、それはもはや単なる「脱却」ではなく、未来へ向かうための大切な一歩なのだろう。

参考図書:

・ジャスティン・ゾルン、リー・マルツ『静寂の技法: 最良の人生を導く「静けさ」の力』(東洋経済新報社)
・『WIRED 日本版 VOL.48 RETREAT(未来への脱却)』(コンデナスト・ジャパン)

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柴田 裕介

編集長

(株)HULSの代表兼工芸メディア「KOGEI STANDARD」の編集長、コラムニスト。東京とシンガポールを拠点に活動を行う。日本工芸の国際展開を専門とし、クリエイティブ・ビジネス面の双方における企画・プロデュースを行っている。