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日本の美意識「間と余白」

日本ならではの美意識を語るとき、「侘び寂び」と同じように、「間」と「余白」という言葉も欠かせないものだ。「間」は、主に演劇や音楽、対人関係の中で意識されるもので、「余白」は美術やデザインなどの平面的なものにおいて、頻繁に用いられてきた言葉である。

何もないことは豊饒

「間」や「余白」という意識には、仏教の「無」や「空」という概念との繋がりが感じられる。キリスト教では、「無」とは「有」の対義語で、何も無いことを意味するが、仏教では、何もないことは豊饒であり、実は多くのものが含まれていると考えることがある。これは、「間」や「余白」というものに、何らかの意味を見出すことにも通じている。例えば、花を生けるという行為は、西洋文化では花そのものをいかに美しく表現するかに重きが置かれるが、日本の生け花では、一輪の花であっても、その空間に溶け込んでいれば美しいと感じることができる。前章で述べた侘び寂びの「不完全であることの美」にも通じるが、何か足りない部分があってこそ、美しさが際立つというのは、日本や東洋ならではの独特な捉え方でもあるのだ。

引き算の美学

「間」という言葉を聞くと、日本では建築における「客間」や「床の間」という言葉を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。元来、日本の建築では、それぞれの空間が明確に区切られた「部屋」というものは存在せず、柱と柱で囲まれた空間を「間」として認識してきた。この曖昧な空間に何らかの意味を求める感覚が、日本人の美意識に大きく影響してきたのではないかと考えられる。

「余白」という言葉は、そうした「間」の感覚を背景にして、日本美術とともに発展してきた。日本の国宝である長谷川等伯の《松林図屏風》や尾形光琳の《燕子花図》は、大胆な余白が用いられている。また、酒井田柿右衛門の磁器は、余白を活かした花鳥図の絵付け表現で国際的にも有名であり、これらは、「引き算の美学」とも言え、余白を美しく感じるために、草花などが描かれているのではないかと思えるほどだ。

世界に広がる「間」と「余白」

現代において、「間」と「余白」という感覚は、独特な日本の美意識の一つとして、海外でも認識されるようになってきた。海外では「MUJI」として知られる無印良品は、余白を活かしたデザインで海外の人を魅了しており、ユニクロのショップも内装や陳列方法などに、同じような美意識が埋め込まれ、多くを語らずとも日本らしい空間だと感じることができる。一般的には、こうした余白の多い日本のデザインは、物足りないと感じる外国人が多いものだが、枯山水庭園が外国人から観光先として人気を集めているように、その独特の美しさに魅力を感じる外国人も増えてきた。

英語では、「間」や「余白」と近い美意識として、「Simplicity」という言葉がある。スティーブ・ジョブズがアップルの製品で、「Simplicity」を体現して以降、世界のデザイントレンドの一つともなっている。ただし、余計なものを削ぎ落とし、シンプルさを極めることと、余白そのものに意味を見出すこととは似て非なるものだ。間や余白というものは、「無」そのものに意識を傾けることであり、また、有るもの同士の境界線を曖昧にするということでもある。そのぼんやりとした表現こそが、日本的な美意識なのだろう。

工芸品は、日常の道具であり、日々の暮らしにおける佇まいも魅力の一つだ。一つ一つをどのように置いて使うか、どのように収納するかは、とても大切な作業であり、まさに、「間」というものをどの程度設けるかを考えていると、間そのものが美しくなくてはならないと思うようになる。置き方だけでなく、工芸品そのものが、人の手によって生み出されるものであるため、完璧すぎることのない「余白」が存在する。複数の工芸品の組み合わせによって、その余白を埋めたり、活かしたりすることも、楽しみの一つであろう。そのゆとりこそが、現代に求められている感性なのかもしれない。

庭園:報国寺(神奈川県鎌倉)

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柴田 裕介

編集長

(株)HULSの代表兼工芸メディア「KOGEI STANDARD」の編集長。東京とシンガポールを拠点に活動を行う。日本工芸の国際展開を専門とし、クリエイティブ・ビジネス面の双方における企画・プロデュースを行っている。